Mag-log in火曜日の午前十時。
帝人の執務室には、都市開発事業本部長と法務統括責任者が呼ばれていた。
机の上に置かれているのは、皇グループが共同で進めている大規模複合施設の開発計画に関する契約変更案だった。
共同事業者である東栄都市開発から、前日の夕方に届いたものだ。
「先方は、建築資材と人件費の予想を上回る高騰を理由に、追加費用の六割を当社に負担してほしいと要求しております」
事業本部長が資料をめくりながら説明する。
「加えて、工期を最大八か月延長し、遅延に伴う損害賠償を免除すること。その一方で、完成後の利益配分については現行契約を維持したいとのことです」
「随分都合がいいな」
帝人は変更案から顔を上げなかった。
「法的には、どう判断する」
問われた法務統括責任者が姿勢を正す。
「資材価格の急激な変動については、契約締結時に予測できなかった事情として協議の対象になる余地があります。ただし、先方の要求をそのまま受け入れる義務は
休憩を挟んで再開した会議は、さっきより具体的な条件の話へ入っていた。 各社の出資比率。 追加費用が発生した場合の負担。 施設完成後の運営権。 どれも一社だけでは決められない。 だからこそ、話は簡単にはまとまらなかった。 帝人さんは資料を見ながら、必要なところだけ口を挟んでいる。 さっきまでのように次々と問題を挙げるわけではない。他社の意見も聞きながら、条件がどこへ落ち着くのかを見ているようだった。「追加負担については、各社の当初出資比率を基本とする案でいかがでしょうか」 議長役の社長が言う。 すぐに何人かが意見を出した。 上限を設定すべきだという会社。 事業規模に応じて負担を変えるべきだという会社。 一定額までは共同比率、それを超えたら再協議にしたいという会社。 どれも理由がある。 しばらく議論が続いたあと、一人の社長が帝人さんへ視線を向けた。「皇社長は、上限を設けた上で出資比率に応じて負担する案が妥当というお考えでしょうか」「現段階ではな」「でしたら、弊社もその方向で異論ありません」 続いて、別の企業も同意する。「皇社長がそう判断されるなら、こちらも賛成で構いません」 私はなんとなく帝人さんを見た。 帝人さんは喜んでいなかった。 むしろ、わずかに表情が冷えた。「それは、おかしいでしょう」 会議室が静かになる。 最初に賛成した社長が眉を上げた。「何か問題がありますか?」「俺が賛成したから賛成する、という部分です」 帝人さんは資料を閉じた。「俺は皇グループにとって、この条件なら検討できると言っただけだ。他社にとって妥当かどうかまで判断したつもりはありません」「もちろん、それぞれ事情はありますが、皇グループが受け入れられる条件であれば、一定の合理性は――」「そ
その日の予定表には、いつもの会議とは少し違う名前が並んでいた。 財界合同協議会。 参加企業一覧には、私でも知っている大手企業の名前がいくつも並んでいる。 銀行。 商社。 鉄道。 通信。 不動産。 製造業。 それぞれの業界で上位にいる企業ばかりだ。「帝人さん、今日の会議って結構大きいんですね」 移動中の車内で資料を確認しながら言うと、帝人さんは隣でタブレットを見たまま答えた。「複数業界にまたがる共同事業だからな。参加企業が多いだけだ」「その言い方だと普通の会議みたいですけど、出席者ほとんど社長とか会長ですよ」「意思決定できない人間だけ集めても話が進まないだろう」「そういう問題じゃなくて……」 私はもう一度名簿を見る。 テレビや経済誌で見たことのある名前まである。 帝人さんの会議相手としては珍しくないのかもしれない。 でも、これだけ一度に並ぶとさすがに少し緊張する。「小春」「はい?」「そんなに構える必要はない。いつも通りでいい」「帝人さんはそうでしょうけど、私は違いますよ。あの人たちの前で変なことしたらどうするんです?」「小春が普段通りなら問題ない」「その普段通りが、外で通用するか心配なんです」「通用しなければ俺が判断する」 さらっと言われる。 それで安心していいのか。 余計に緊張すればいいのか。 よく分からなかった。 ◇◇◇◇ 会場は都内の会員制施設だった。 受付を抜け、案内された会議室へ入る。 すでに何人か到着していた。 見覚えのある顔が並ぶ。 私は反射的に背筋を伸ばした。 帝人さんは。 いつも通りだった。「皇君。来たか」 最初に
美術館へ行った翌週の休日。 私は公園のベンチに座りながら、隣の帝人さんを見た。「帝人さん」「何だ」「なんで時計見てるんですか?」「開始時間を確認した」「何もしない時間に開始時間いります?」「二時間やると言っただろう。終わる時間が分からなければ二時間にならない」 やっぱり何かがおかしい。 少し前、私が「何もしない休日も好き」と話した時、帝人さんは自分にもできると言い出した。 そこからなぜか話が進み、今日、本当に二時間だけ予定を入れずに過ごしてみることになったのだ。 場所は、私が選んだ。 大きな公園の中にある、池のそばのベンチ。 近くにはカフェもあるし、歩きたくなれば散歩もできる。 ただし、今日は何をするか決めない。 それが唯一のルールだった。「十二時十二分開始。十四時十二分までだな」「タイマーかけないでくださいね」「かけない」「スマホも仕事で見ないでください」「連絡が来たら?」「緊急なら榊原さんから電話が来ます。それ以外は二時間後でいいです」 帝人さんが私を見る。「小春、俺を休ませる時だけ厳しくないか?」「普段の実績です」「またそれか」 そう言いながらも、帝人さんはスマートフォンをポケットへしまった。 さて。 これで本当に何もしない。 風が少し冷たい。 池には水鳥が浮かんでいて、散歩をしている人や子供を連れた家族が時々前を通る。 私はぼんやり眺めていた。 帝人さんも黙っている。 一分。 二分。 たぶん三分くらい。「小春」「早いですよ」「まだ何も言っていない」「何かしようとしましたよね」「聞きたいことがあっただけだ」「
その週の土曜日。 私は帝人さんと美術館の前にいた。「……本当に来ましたね」「小春が行ってみたいと言っただろう」「『機会があれば』くらいの意味だったんですけど」「機会は作ればいい」 相変わらずだった。 ただ、今日は仕事ではない。 帝人さんもスーツではなく、落ち着いた色の私服を着ている。「帝人さん、よくここに来るんですか?」「年に何度かだな。展示による」「もっと頻繁なのかと思いました」「時間がある時だけだ。趣味だからといって、毎週来る必要はないだろう」「それもそうですね」 中へ入ると、帝人さんは受付を済ませて、そのまま展示室へ向かった。 私はてっきり。 この作品は何年のもので。 作者がどういう時代背景で。 なんて説明を始めるのかと思っていた。 でも。 帝人さんは何も言わない。 静かに作品を見て。 次へ進んで。 気になったものの前では、少し長く立ち止まる。 私もその隣で、同じように見ていた。 しばらくして。「帝人さん」「何だ」「珍しいですね」「何が」「黙ってるのが」 帝人さんがこちらを見る。「美術館でずっと喋る方がおかしいだろう」「そうなんですけど、帝人さんって普段、何か見たらすぐ分析するじゃないですか」「していないわけじゃない。ただ、ここで結論を出す必要はない」 そう言って、目の前の絵へ視線を戻す。「分からないまま見てもいいし、気に入らなければ通り過ぎればいい。仕事じゃないんだから、全部理解する必要もない」 やっぱり。 少し不思議だ。 仕事中の帝人さんなら。 分からないものを、そのままにしておくことなんてほ
午後の会議が一つ延期になった。 先方の事情によるものだったので、珍しく三十分ほど予定に空きができる。 私は変更後の予定表を確認してから、帝人さんの執務室へ入った。「十五時半まで空きました。次の資料ももう確認済みですよね? だったら、この三十分は休憩にしましょう」「俺は別に休まなくても――」「休憩です」 言い切ると、帝人さんは少しだけ眉を寄せたものの、今回は反論しなかった。 最近、この人も諦めるところを覚えたらしい。 私は給湯スペースから紅茶を持って戻り、帝人さんの前にもコーヒーを置く。「珍しいな。小春が自分から俺の分まで持ってくるのは」「いつもやってるでしょう」「仕事としてはな。今は休憩なんだろう?」 そう言われると、妙に区別されている気がする。「じゃあ返してください」「嫌だ。せっかく小春が持ってきたんだから飲む」「そういう時だけ素直ですね」 帝人さんは気にせずカップを手に取った。 私は向かいの椅子へ座る。 三十分。 せっかく仕事をしない時間ができたなら、少し前に言われたことを試してみてもいいかもしれない。「帝人さん、この前、私にも聞きたいことがあれば聞けばいいって言いましたよね」「ああ。別に一つずつ許可を取らなくてもいい。仕事の機密や他人の個人情報でなければ、答えられることは答える」「そんな本格的なこと聞きませんよ」「なら問題ないだろう」 聞いていいと言われると、逆に迷う。 好きな食べ物。 休日の過ごし方。 そういうことも知らないけれど、もっと単純なことがふと気になった。「帝人さんって、子供の頃は何して遊んでたんですか?」 少しだけ間があった。「遊びか。学校の友人と外で遊ぶこともあったし、家では本を読んでいることが多かったな。ただ、遊びそのものを強く覚えているわけじゃない」
その日の仕事が終わりかけた頃。 私は翌日の予定を整理しながら、帝人さんへ最後の確認をしていた。「明日は九時から役員会です。資料は全部揃ってます。午後の予定も変更ありませんから、今日はこれ以上増やさないでくださいね」「増やすつもりはない」「最近は信用できるようになってきました」「最初から信用しろ」「実績が必要です」 帝人さんが何か言いたそうな顔をしたけれど、反論はしなかった。 その代わり。「小春。このあと時間はあるか?」「ありますけど、何か仕事ですか?」「違う。買い物に付き合ってほしい」 珍しい言葉だった。 帝人さんと買い物へ行ったこと自体はある。 でも、「付き合ってほしい」と向こうから頼まれるのは珍しい。「何を買うんです?」「母上への贈り物だ」「ああ」 それなら納得だ。「お誕生日ですか?」「いや。少し前に母上が欲しいと言っていたものがあった気がするんだが、何だったか思い出せない」「それ、私が行っても分からなくないですか?」「小春なら母上が好きそうなものを選べるだろう」「息子が考えてくださいよ」「だから考えている。その補助を頼んでいる」 仕事みたいに言わないでほしい。 ◇◇◇◇ 会社を出たあと、私たちは百貨店へ向かった。 帝人さんは最初から迷いなく婦人雑貨のフロアへ行く。「何か候補はあるんですか?」「スカーフかバッグか、アクセサリー」「幅広いですね」「母上は大抵のものを自分で買う。だから必要なものを贈ろうとすると、ほぼ全部持っている」「御曹司のお母様らしい悩みですね」「俺もそう思う」 帝人さんは真面目な顔で店内を見る。 ただ。 五分経っても何も手に取らない。「帝人